テレビ塔が呼んでいる!—Youは何でエストニア?
情報メディア学科 井上重信
2021年4月1日に日本を出国し、同日エストニアの首都タリンに到着しました。
その日から半年以上が経過しました。今はエストニア第二の都市のタルトゥにいます。エストニアで最も歴史があるタルトゥ大学の経済・経営学部の訪問研究員として滞在させて頂いています。
エストニアという国をご存知の方は……あまりいないのではないかと思います。地理的にはフィンランドの下でフィンランド湾を挟んだ対岸に位置します。知らない国だけに遠い印象があると思いますが、日本からだとヘルシンキまで直行便で9時間半、そこから空路で30分ほどで着きます。ニューヨークだと直行便でも14時間くらい掛かるのではるかに近いですね。あっという間に着く感じです。
日本での有名なエストニア人というと元関取の把瑠都関くらいかと思います。若い人はご存知ないかも知れませんね。大関まで昇格したすごい人です。それ以外だと、エストニアは「バルト三国」のひとつ、ということはご存知の方もいるのではないでしょうか? というよりは「それしか知らない!」……かもですね。私もそうでした。(クイズです「残りの二つの国はどことどこですか? お調べ下さい」)
「じゃあ、なんでそんなよく知らない国に行こうと思ったのですか?」と良く聞かれます。う〜ん、その質問、答えるのが本当に難しいのですよね。自分でもなぜエストニアを知って、来たくなったのか明確な理由はよく覚えていないのです……涙。
思い当たるのは授業の準備で見聞きするようになったということかと……。
2014年に勤めていた広告会社を辞め、4月から情報メディア学科に教員として着任してから担当したのが「IT活用とビジネス」というデジタル系マーケティングコミュニケーションの授業でした。この授業ではインターネットやデジタル技術(いわゆるICT)を活用したビジネスについて学んでもらっています。
その授業の準備をする中で「エストニアはデジタル先進国」「デジタル社会のエストニア」というようなフレーズを目にする機会があったのだと思います。その時は「ふ〜ん、エストニアって国はどこだかよく分からないけど、デジタルテクノロジーがすごい国なんだなぁ」くらいに思っていました。
そしてそこから数年経ち、ちょうど学科の海外研修の担当の話があったので「この機会にエストニアに訪問できるかも」と志願しました。
ただ、エストニアだけでは学生が興味を持ってくれるとは思えなかったので、ムーミンで人気のフィンランドとデザインで有名なスウェーデンをセットにして企画を進めました。その時の海外研修のテーマは「エストニアで電子国家、北欧でキャッシュレス社会を学ぶ」でした。
結果、40人の学生が参加し、肥後先生と共にこの3カ国を10日間で回ることになりました。(この話を書くと長くなるので別の機会に個別に聞いて下さい)
個人的にはエストニアが最も興味があったのですが、全体の日程から実質2日半しか滞在できませんでした。その中で旧市街地やエストニアの電子政府を紹介するe-ESTONIA Showroomなどを訪問しました。
旧市街地は1300年代から中世の街並みを今に残す世界遺産でとてもキレイな街でした。そしてe-ESTONIA Showroomでは電子国家としての取り組みを理解することができ大変勉強になりました。エストニアでは99%の行政手続きがインターネットでできます。できない手続きは「結婚届、離婚届、不動産登記」の3つだけと言われています。選挙の投票もインターネットでできますし。
またブロックチェーンで個人データが管理されていて、自分のこれまでの病歴や出ている薬も情報が入っているので、病院ごとにアレルギーのことや現在飲んでいる薬のことなどを説明する必要はありません。処方箋もIDカードで情報を取ることができます。
しかも「一度限りの原則(once only regulation)」というのがあり、何度も同じことを聞くことはありません。日本の場合、役所に行くと部署ごとに住所、氏名などを何度も何度も手書きで書かされますが、そのようなことはありません。
そして、e-Schoolでは全ての子供達が学校でも家でもパソコンで学ぶことができます。重い教科書をランドセルに詰めて運ぶようなことはありません。宿題も教科書も副教材も全てクラウドに上がっているので、手ぶらで帰っても家で予習復習、そして宿題をすることができるのです。2010年にはこのようなe-Learningの環境はエストニア全土で完成していました。
昨年(2020年)、新型コロナの感染拡大で日本の学校教育現場ではオンライン化を急遽行わなければならず大混乱をしていましたが、エストニアでは既に10年前にインフラもソフトも教員たちの意識も整っていたので、何の混乱もなく自宅学習に切り替えることができました。その一方日本は……。
日本は菅元首相の肝入り政策として「デジタル庁の創設」を発表し、今年2021年9月に発足しました。これからスタートということですが、エストニアはそのはるか先を行っています。その意味で正に「デジタル先進国」と言えると思います。
話を戻しますと、その海外研修では2日半しか滞在できず、首都タリンの港からヘルシンキ行きのフェリーの船尾デッキで肥後先生と共に名残惜しく旧市街地を見ていたところ、ふと左方向に何か高い施設が見えました。
周りに何もない森の中にそれだけが高くそびえ立っているので、ある種異様な感じでした。肥後先生に「あれ、何ですかね? まるで秘密基地のアンテナですね」というと「あんな誰からも見える秘密基地は秘密ではないでしょう」ということを言われました(笑)
その時に「あの建物が何かを調べて、また見に来たい!」と心に強く思ったのを今でも覚えています。つまり何の根拠もありませんが、あのテレビ塔が自分を呼び寄せた、という妄想が芽生えたのです。で、この話を続けると本当に長くなるのですがもう少しだけお付き合い下さい。
帰国後、あの塔が何かを調べたらソ連時代に建てられたタリンテレビ塔であることが分かりました。
ご存知か分かりませんが、エストニアは1918年に一度独立しましたが1940年からソ連に占領され、ずっとソ連邦の一国でした。そのような歴史があります。そしてソ連邦が崩壊した後、1991年にようやく独立回復を果たし、現在に至っています。その独立回復の時に歴史的舞台になったのがテレビ塔でした。
この話をちょっとしますと、市民が流血することなく独立回復を勝ち取ったので「歌う革命(Singing Revolution)」と言われています。1989年には首都タリンから隣国ラトビアの首都リガを経由し、杉原千畝で有名なリトアニアの首都ヴュリュニスまでの約600キロを200万人の市民が手を繋ぎ、そして歌を歌って世界に自分たちの独立をアピールしました。
その2年後、ソ連軍が独立を阻止するべく首都タリン制圧のために戦車部隊などを派遣し、放送拠点であるタリンテレビ塔を占拠しようとしましたが、市民がバリケードを築き、またも手を繋いで武力に頼ることなく戦車や銃を持ったソ連兵と対峙したのです。いつソ連兵が銃を撃つか分からず、殺されるかもしれない恐怖の中でも冷静さを失わず過激な行動に出ずにテレビ塔を守り切ったのです。
あのテレビ塔にそのような歴史があることを知ってしまったので、単に「デジタル先進国」というだけではなく、旧共産主義国家がなぜこの短期間にこのようなデジタル社会、デジタル先進国になったのか、スカイプやBOLTというグローバルなスタートアップ企業を作ったエストニア人とはどのような人たちなのかなと、どんどん興味が膨れ上がりました。そして、なぜこんなにもエストニアのことが日本で取り上げられるようになったのか……国のブランディングという広報・マーケティングの努力の成果なのではないか……と言う自分の研究領域にも関わってきました。
そのようなことを考えている中で、エストニア人やエストニア関連の人たちと出会いました。その人たちが何とも素敵な人たちばかりで、どんどんエストニアのファンになっていったのです。そして、在外研修制度を使うことができる最初で最後のチャンスが訪れたのです。
実際は、昨年2020年4月から1年間の予定でしたが、新型コロナの感染拡大で国境が閉鎖されてしまい、出発直前に大学からの寛大なご配慮を頂き1年延期となりました。そして今年の4月に無事エストニアに来ることになったのです。
実は、2018年はエストニアの独立100周年で、その年に学生を連れて海外研修で訪れました。今年は独立回復30周年で、かつ日本とエストニアの友好100周年の記念イヤーです。そのようなタイミングにこちらに来ることができたのは正にあのテレビ塔が自分をエストニアに呼んでいたとしか思えません。
「テレビ塔が呼んでいる!」という妄想から始まったエストニアでの在外研修ですが、残りの時間、自身の研究活動は当然ですが、エストニアのことをもっと深く知って、日本との友好関係の橋渡しになりたいと思います。また帰国後も両国のために活動したいと思っています。
最後まで読んで頂きましてありがとうございました。
こちらに来てからの「エストニア珍道中」についてはいつか機会があればメルマガで紹介させて頂きたいと思います。