みなさんは福島県浪江町をご存知ですか? 浪江町は2011年3月11日の東日本大震災による地震動と津波の影響により発生した、福島第一原発事故に伴う避難指示区域に指定されています。先々月の2017年3月31日に、浪江町の避難指示が一部解除となりました。そして、その翌日にはJR常磐線が6年ぶりに浪江町までの運転を再開しました。私は4月9日にこの常磐線に乗り、浪江町を訪れました。今回の記事では、浪江町での私の体験をご紹介したいと思います。
避難指示区域の概念図
(経済産業省:http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu/hinanshiji/2017/0310_01.html)
私が浪江町を訪れたきっかけは、たまたま仙台へ観光に訪れていたことです。仙台で観光地を調べているときに、ふと浪江町が避難指示解除になったことを思い出し、行ってみたいと思いました。
私は9日のこの日、宮城県多賀城市に宿泊していました。朝、ホテルの最寄りのJR中野栄駅を出発し、約2時間半をかけてJR浪江駅へ。交通費は片道1940円でした。ちなみに、JR常磐線の電車は1時間に一本ほどでした。
浪江町への道のり
浪江駅へ到着すると、常磐線の開通を知らせる旗が沢山ありました。また駅前には浪江町出身・佐々木俊一という作曲家の譜碑のモニュメントがあり、そばには古い信号機がありました。続いて、市街地へと向かいます。
浪江駅
JR浪江駅前のモニュメント
市街地には人がおらず、見かけたのは私のように観光をしている人で、それも1~2人ほどでした。商店街を歩きましたが、地震の影響で一部が崩れた建物がそのままになっているところが多かったです。歩道から人気がない店内を覗いてみると、2011年のカレンダーが残っており、当時から時が止まっているような切ない気持ちになりました。また、商店街の一角には、避難指示が出る前の町の活気を感じられるポスターが残っていました。
商店街
震災の影響を受けた建物
人がいない幼稚園
壊れた自動販売機
観光ポスター
続いて、町を南に歩きました。歩いている途中で、パトロール中の警察官の方に話しかけられました。警察官の方曰く、浪江町は避難指示が一部解除されたものの、まだまだ人がいないので、安全のために声掛けをしている、とのことでした。
警察官の方と別れ、20分ほど歩くと、帰宅困難区域との境目を知らせる通行止めの看板がありました。通行止めの先には自然豊かな風景と住宅があります。すぐそばに見えているのに手が届かない風景に、とても悲しい気持ちになりました。
通行止め地点
次に、浪江町役場へ向かいました。この日は浪江町仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」が、役場の敷地内で開かれていました。「まち・なみ・まるしぇ」は毎月第2土曜日・日曜日にイベントが開催されているようで、4月は8日・9日の開催でした。なんと、私が訪れた日の前日に安倍晋三首相が「まち・なみ・まるしぇ」を訪問していたようです。1日違いですね。
浪江町役場
「おかえりなさい」の看板
ちょうど時刻も昼に差し掛かっていたので、「まち・なみ・まるしぇ」で昼食を取りました。私は浪江町のご当地グルメである、なみえ焼そばを食べました。なみえ焼そばを盛りつけたお皿には、浪江町の伝統工芸品である大堀相馬焼の器が使用されていました。なみえ焼そばの特徴は、麺がうどんのように太く、具材は豚肉とモヤシが基本であることです。モヤシがシャキシャキとして、とてもおいしかったです。
なみえ焼そばを食べていると、店内にいたお客様が「私の友人が浪江町出身で、町の写真を見せてあげたい」といった会話をしていました。街を歩いていて、たびたび目にした「おかえりなさい」の文字。この文字を見ていると、浪江町が日本の大切なふるさとであるいうことを実感しました。
なみえ焼そば
なみえ焼そばの店
もう少し滞在したかったのですが、電車の時間が来てしまいました。浪江駅からの電車は2時間に1本ほどしかないので、1本逃すと大変です。私は後ろ髪を引かれる思いで、浪江駅を出発しました。
東日本大震災から6年が経った現在、浪江町は復興への道のりを歩みだしました。今回の旅行で浪江町を訪れ、現在の様子を目にしたことで、慣れ住んでいた人々がふるさとに帰ることができない悲しみを実感しました。少しでも早く、すべての避難指示が解除されることを祈っています。また機会があれば、復興に向けて様々な取り組みを行っている浪江町に、皆さんもぜひ訪れてみてください!